東伊豆町の歴史

東伊豆町の紹介

時の抱擁

写真『旧稲取灯台』

東伊豆町の人々の起源を今に伝えるものとして、稲取ゴルフ場遺跡から発掘された十数個の細石器があります。

これは、移動生活をしていた約12000~13000年前の先土器時代の人々が狩猟などに使用したものと推測されています。

その後、人々が集落を形成し定住をはじめたのは、縄文時代早期(約9500~6500年前)の頃です。

町内には、奈良本地区の峠遺跡と穴ノ沢遺跡、白田地区の宮後峠遺跡から発掘によって確認されています。

特に峠遺跡から発見された石器製作跡は、矢じりを製作したもので、剥片が数ブロックにわかれて出土しているので流れ作業によって石鏃製作が行なわれていたことが予想されます。

ほかに竪穴状遺構や土坑が発見されており、その種類、量などからこの時代の貴重な遺跡といえます。

弥生時代には稲作農耕文化が伝えられました。

稲取地区の細野遺跡や崎町遺跡から弥生式土器が出土されており、東伊豆町でもこの時期から稲作が行なわれていたことがわかります。

奈良時代から平安時代にかけて、伊豆は流刑の地となり、多くの貴族、僧侶、武士が流されました。

源頼朝は、蛭ヶ小島(現韮山町)に流されたおり、伊東・川津といった伊豆の豪族と親交を結び、稲取の八幡神社にも参拝したと伝えられています。

頼朝が建久三年(1192)に鎌倉幕府を開くと、東伊豆と鎌倉の往来も盛んになり陸上交通が発展しました。

同時に稲取港をはじめ伊豆の港も海上交通の発達とともに中継点として栄え、南北朝・室町時代には、紀州から来た鈴木一族によって管理されるようになりました。

その後鈴木一族に変わり、伊豆の港は豊臣・徳川の浦奉行役の管理下に置かれました。

江戸時代には、海運の進歩により稲取港も大いに繁栄しました。

江戸城築城の際には、築城石として「伊豆石」を切り出し船で運搬、東伊豆町でも大川などから切り出された石が稲取港から江戸へ向けて出航しました。

そして、東伊豆町の支配は幕府から沼津藩主水野氏へと代わりました。

当時の人々は漁業や延宝六年(1678)ころ白浜(現下田市)から転植された天草漁で生活をしていました。

明治時代に入り、東伊豆町は韮山県から足柄県に、明治9年には静岡県に属するようになり、このころから東伊豆町が近代化の道を歩み始めるわけですが町の発展に稲取村の村長を務めた田村又吉翁が大いに貢献しました。

現在町の主要産物となっているみかん栽培を広めたり、天草の製品開発に尽力するなど、東伊豆町の発展に生涯をささげました。

さらに、町の発展に尽くした人物として木村弥吉翁があげられます。

木村翁は明治41年に旧城東村大川に移り「絹サヤエンドウ」の早生栽培に成功するとともに、熱川に旅館を建て全国有数の観光地にしました。

その後昭和になって北川温泉、稲取温泉が発見されています。

戦後、着実に発展した東伊豆町は、昭和34年に稲取町と城東村が合併して現在の東伊豆町が誕生しました。

昭和36年には伊豆急行が開通し観光の町として注目を集めるようになりました。

そして、今新生東伊豆町が誕生してから50年という新たなスタート地点に立ち、大きく前進していこうとしています。


『ぼなき石』

写真『ぼなき石』

大川地区の旧下田街道脇に江戸城修築の際、運び残された『ぼなき石』と呼ばれる築城石があります。
この石は250cm、東側小口幅121cm・高さ122cmの安山岩で城郭用の天端石といわれています。
上部には「羽柴左衛門大夫口」と刻まれており、安芸広島城主福島正則がこの地域に採石丁場を設けその役を果たしていたことがうかがえます。
昭和55年に町の文化財に指定されています。


『龍淵院』

写真『龍淵院』

片瀬地区にある龍淵院は弘安元年(1278)に創立された町内でも正定寺に次ぐ古い曹洞宗の寺院です。
骨応長薫大和尚による開山で、山門は江戸時代の名工左甚五郎の作との言い伝えがあります。


『シラヌタ大杉』

写真『シラヌタ大杉』

シラヌタの池の近くにある大杉は、推定樹齢1000年以上といわれ、伊豆半島でも最も古い巨木のひとつといわれています。
樹高45m、根回り12m、目通し90m、枝張りは東西約25m、南北約30mの大きさがあります。
昭和56年に町の文化財に指定されました。